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tunisia

チュニジア紀行  2010.12.05---12.12 

Port el Kantaoui  のマリーナで私  
リッチなチュニジア人の家の中

12月はじめにチュニジアに行って来た。 

たった2時間半でヨーロッパとはガラリと様子の違う場所に来れる、というのはとても魅力。 

時々、英国とは(欧州とは)かけ離れた文化圏の空気を吸いたくなる。
といってもいろいろ事情もあってせいぜい1週間余りとなると東はネパールぐらいまで。
西は北アメリカというところか。 
リッチなチュニジア人の家の中


エジプトでもモロッコでもアラブの国では買い物は値切るのがあたりまえ。
ガイドブックなどによると言い値の半分から交渉を始めるべき、とか。
慣れてしまえばこれも生活の一部なので自然にできてしまう、と思う。
おそらく地元の人たちにはそんなにふっかけてこないのだろう。
値切るのが嫌な人やちょっと今日はそのエネルギーがない、という人のためにガバァメントショップ(政府公認の店)があってそこでは値段はフィックスされている。
やはりツーリズムが国の重要な産業なのでよく考えているわけだ。 

チュニジアの歴史は行く飛行機のなかで急いで要点だけ拾い読みした。
私の参加したツアーはほとんど毎日、観光が組み込まれているので実はガイドさんに期待していたのだ。
チュニジアの大まかな歴史の流れ、そしていろんなサイトの説明もじっくり聞ける、とひそかに期待していたのだが彼女は表面だけサラッとなでて、日常生活に関する質問ならOKだが、ちょっとこみいるとダメ。
彼女はチュニジアの人口の1%しか占めないベルベル人でチュニスに行く高速道路の途中で“あそこが私の家があるベルベル人だけの村”と教えてくれたりしてフレンドリーなのだ。
外国はお隣のリビアとアルジェリアしか行ったことがない。
自分の母と祖母の3世代、一緒に住んでいる。チュニジアは回教国のなかで最も“ゆるやかな”国でコーランの教えと政府の政策がかなりかけはなれているな、という印象を持った。
女性が夫を離婚した場合、共有財産は女性が半分以上、取れるのが普通。
街を歩いている女性の多くがベールをかぶっていない。
でも街のいたるところに大統領(ベン.アリ) の写真のポスターがあり、スターリンや毛沢東を思い起こさせる。
多党政治とうたっているけど中身は独裁政治なのだ。 

フェニキア人のカルタゴを破壊したローマ人はチュニジアを地中海の貿易の中心地にした。ちなみにカルタゴの象を連れてアルプス越えしたハンニバルはカルタゴ破壊の後、自殺した、といわれている。
リッチなローマ人が作ったヴィラをはじめとしてコロシアムや多くの建築物が今でもまだまだ発掘されている。 

”チュニジアモザイクツアー“という私の参加したツアーの名が示すようにバルドー博物館やエルジェムの考古学博物館のモザイクのコレクションは世界に類を見ない。 

1956年まで70年間、フランスの保護領だった関係で仏語とアラビア語が公用語。
独立を勝ち取ったブルギーバは英雄だ。
フリータイムの日、仲良くなった数人とモナステアーという街に行った。
そこには30億ポンドかけて作られたといわれているブルギーバの霊廟がある。
ゴールドがいたるところはりつけられていて一見の価値はある。
霊廟に向かって歩いていたら年配の男性が話しかけてきた。
頼んでもないのに流暢な英語で説明をはじめた。
今。
私たちが立っているところは墓場だったが霊廟に通ずるアプローチを作るために遺体は掘り起こされてあちらに移された、と指で示した。
回教では死後24時間以内に埋葬する。
遺体の顔はすべてメッカの方を向ける。
墓の周りにいくつか大きな石が置いてあるが残された家族が1年に1回そこに座って遺体に話しかける。
お供えに持って来た食べ物は貧しい人たちの為のもの。“
一人の霊廟の為に莫大なお金をかけて、、、その金でどんなに多くの貧しい人たちが救われたか。”
とポツリともらした男性の横顔をジッと見てしまった。
こんなに一生懸命、説明してくれる、知的な老人と私たちツアーのガイドを比較してしまった。
老人はもっともっと話しをしたかったようだし私もいろいろ聞きたいこともあったが、連れがランチを食べたいと言い出し、チップを渡して分かれた。 

ローマ時代の公衆トイレ。手前の溝に絶えず水が流れていて用を終えたらその水で始末する。 The Roman Site of Dougga







記事と写真 ロバーツ千恵子
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